父島に残る軍需施設跡(2011年8月1日撮影、初寝山にて)

今日、8月15日は日本にとっての終戦日ですね。記念日という呼び名も少しおかしいですが、先日(2011年8月1日〜4日)、小笠原諸島・父島に 旅行をしました。その際、少しながら日本の終戦と小笠原の終戦が違うことに驚き、自分の見聞の狭さに気づいたことがありました。その見聞したことを少し紹 介いたします。

まず、略年表をご覧ください。


終戦間近の昭和19年(1944年)、近隣の硫黄島が激戦地になる中、住民は日本の内地へと強制疎開させられています。ただ、父島自体は島は軍事拠点となりましたが、空襲は受けたものの直接戦闘が行われることなく終戦となったようです。

ここで驚いたのは、戦後は米国統治となり、昭和42年(1967年)返還が決まり、翌昭和43年(1968年)に日本に返還されるまで、日本系の島民が父島に帰れなかったことです。欧米系にルーツにもつ人々は戦後すぐに、帰島しています・・・。

当然、日本に強制疎開されていた日本人系島民も、戦後すぐに帰れると思い込んでいたそうですが、実に20数年以上も父島に帰ることが許されなかった のです。内地にコネクションやノウハウもない人が大変で経済的にもライフスタイルの違いにも悩まされ、相当の苦労を強いられたようです。

また、欧米系の島民も歴史に翻弄されています。歴史的にイギリス、アメリカの統治 → 明治政府の統治 → 1945年の戦後はアメリカの統治 →  1968年から日本。言葉も英語 → 日本語 → 英語 → 日本語と翻弄され、それ以上に慣習の違いに戸惑ったようです。英語で自由闊達な雰囲気が、 日本返還後は朝礼、起立・礼!に相当、悩まされたと言います。戦後の米国統治時代はグアムの高校に行き、そのままグアムやアメリカ本土に移住した人も多 かったため、父島から逃げ出す人も多かったとか。

そして、現在大きな問題は経済的な問題です。以前は農業も発展し、魚と共に統治時代はグアムへ輸出、日本返還後は日本内地へ販売していたが、日本へ の物流的なハンディ(船が1週間毎にしか、往復しない)、日本内地での価格競争(輸入品との価格競争を含む)に負け、今では農業は衰退。食料を含め、衣料 や生活必需品は週に1回、入港する船からの供給に頼っているとか。

現在の島民は約2,000人(戦前は4,000〜5,000人弱は居たそうですが)の経済の中心は観光業と国からの公共事業、環境調査や環境保護活動にかかわる事業が中心です。ですから経済的には決して豊かではないようです。

しかし、第4世代とも呼ばれる人たちが小笠原に移住を始めています。サーフィンやダイビング、フィッシング、海と山の魅力に魅力を感じた若者が小笠 原に定住を始めています。その彼らが、子供を産み、現在では小笠原の出生率は日本で3番目に高く、小学校も各学年の学級が成立しているとか。将来は非常に 明るいと言えるかもしれませんね。

こんなにも美しい風景の中に潜む戦争の傷跡。人類の歴史はこうした美しい風景の中でも
戦争を繰り広げてしまう愚かさの繰り返しなのですね。

日本の戦後66年、しかし世界で戦争が止むことは未だにありません。日本以外の国は軍隊があ り、常に世界のどこかに派兵され、戦争と関わっているのです。日本単体だけで「二度と繰り返してはならない戦争、平和の大切さを後生に語り継ごう」だけで は自己満足に終わってしまうのですね。平和の大切さが世界に広がっていくことを願うばかりです。

余談ですが、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ前大統領(お父さんのほう)は、戦 時中に小笠原の兄島近海で戦闘機に搭乗していたが日本軍の対空砲火で撃墜され、墜落。乗組員のうち、ブッシュ氏のみパラシュートで脱出し、漂流後、米軍の 軍艦に助けられたそうです。ということは彼が生き残っていなかったら、歴史は変わっていたのですね。その時の縁で父ブッシュは2002年小笠原諸島を表敬 訪問しているようです。

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