先日(2015/8/6)、東京出張の合間に映画「野火」を鑑賞してきました。
映画「野火」公式サイトはこちら
野火(のび)は、小説家・大岡昇平の自らの第2次世界大戦のフィリピン戦線の体験をモチーフにした実話に近い体験小説で1951年に発表されている。映画は、1959年の市川崑の作品と、今回は、映画「鉄男」などで知られる鬼才・塚本晋也の作品である。
あらすじは、舞台はフィリピン戦線。肺病に主人公が、部隊からは追い出され、病院からは食糧不足を理由で入院を拒否され、フィリピンの山野を彷徨うというストーリー。さ迷う間に、上層部の命令で撤退基地へ敗走、逃げ惑う日本兵と出会うが、どの兵士も餓えと恐怖で疲弊、極限の状態で狂乱する兵士、生き延びるために人肉をあさるという狂気の世界が描かれている。
それに加えて、撤退基地への道のりは険しく、米軍の掃討作戦や現地フィリピン人の対日抗戦に遭遇し、大量に日本兵が殺戮されていくという残酷な映像が次々に登場する。
私自身、戦争というリアル体験はなく、戦争小説や映画、ドキュメンタリーを多数見ただけの小市民なので、戦争自体の映像が真実なのか否かは、判断がつきかねることはご了承ください。
さて、塚本晋也の今回の映画ですが、
評価すべき点は、実際に映像ではなく、戦場という極限では、モラル・思いやりなどは殆ど「ゼロ」というのだけは、伝わってきたこと。
逆に消化しきれなかった点ですが、
●全編にわたって、残酷なシーンが連続し、逆に戦争の怖さが伝わってこなかった。
●オブラートに包むべきシーンと、恐怖が全開するシーンのメリハリがなかった。
●主人公をはじめ、心理描写が甘く、極限の状態の心に入り込めなかった。
●ストーリー性が欠如し、何がテーマなのか、わからなかった。
●戦争とはこんなものだ、何と無意味なのかと言いたかったのだろうが、残酷なシーンが多すぎて、退屈な時間が過ぎた。
心理描写をもっと多く多用し、次なる時代への光明を少しでも見せて、観る者に希望を与えるくだりがあっても良かったのではないだろうか?
などと、感じながら、映画の途中では恐怖シーンに慣れてしまって、退屈しながら鑑賞していました。
戦争の恐ろしさは残酷なシーンに至るまでの、人間の心の奥底に眠る狂気が目覚めていくことという推移を描いて欲しかったなと感じます。
しかし、塚本晋也の意図は反戦であることは、明確に伝わりました。今の日本は、「安保法案」など、戦争へのパンドラの箱を開けようとする動きが見られます。
戦争というのは、いつの時代も自分が前線に行く必要のなく、危険な目にあう可能性が低い政治家、軍閥によって創られていくという歴史を鑑みても、戦争に行く危険性のない安倍首相をはじめ、自民党によって起こされているような気がします。
私たちの本音は、世界に冠たる「非核三原則」「平和憲法」を守り、人類の何千年に渡って繰り返される愚行を勇気を持って世界に示せるのは、唯一、日本だけというのを改めて、世界に示すべきと思います。
実際、世界の秩序が国連もNATOも アメリカの軍事力でも、保つことができなかったということを忘れてはならない。「目には目を歯には歯を」「武器には武器」を憎しみの連鎖を生んでいくだけなのですね。
今こそ、新たな提言を日本はすべきです。
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