2015年10月16日(金)、長崎出張。軍艦島こと「端島(はしま)」のクルージングツアーに参加した。
軍艦島へは2回目、前回は2012年10月なので、ちょうど3年ぶりということになる。快晴。
端島は、ご存知のように、今年7月に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして、世界文化遺産に登録された通り、日本の近代化のいわばシンボル。
1960年(昭和35年)には5267人(当時の人口密度の世界一)と繁栄を続けた端島、エネルギー政策の転換期を迎えて、1974年(昭和49年)に閉山し、今は無人島だが、それを産業遺産として、保存を続けている長崎県・市の姿勢は賞賛に値すると思う。
端島は長崎港から18㎞あまりの海上に浮かぶ島で、高速クルーズ船で40分程の距離の航程。
長崎港を出航すると、借景のグラバー園や長崎三菱造船所が見やりながら、ほどなく蒼い海と澄んだ空のもと、女神大橋過ぎる頃から大海原へと移っていく。やがて、グラバーと岩崎弥太郎(三菱創立者)が炭鉱を始めた国内炭鉱発祥地である高島(世界遺産登録の一つ)、軍艦島より歴史の古い炭鉱の島・中ノ島を過ぎた頃より、うっすらと端島が見えてきた。
なるほど、2回目の訪問だが、やっぱり海上にポツリと浮かぶ姿は「軍艦」に似ている。名前の由来は1916年(大正5年)、大阪朝日新聞の記者が、端島の様が軍艦「土佐」に似ていることから、「偉大なる軍艦とみまがふさう」と報じたことに由来するらしい。
このツアーは、実際に島に上陸し、島の半分程度の敷地を見学できる(半分以上は、崩壊の恐れのある建物が多く立ち入り禁止)。
同行したガイドが、「炭鉱という生活の糧、炭坑員とその家族、生活を支える市場、小中学校、病院、パチンコやバーなどの娯楽場もあったんですよ。それに派出所、寺や神社もありました」と、一つひとつの廃墟となった建物を説明するだけではなく、往時の生活風景をも解説してくれるので、興趣が増す。
■島の風景
島には、1916年(大正5)に建てられた鉱員用の日本初の高層鉄筋コンクリート造アパート、1968年(昭和32)に完成した6階建ての校舎などを見学できる。校舎の前のグラウンドは、ボタ(岩石や石炭)で埋め立てられたという。石炭でできた上で、子供たちが遊んでいたわけで、とても信じられない事実だが、何故かほのぼのしてしまった。
しかしながら、大正ロマンとか、黄金の昭和30年代とか、私たちは良い部分だけ切り取って、美化する傾向があるが、そこには過酷な労働環境で働く人々が暮らしていたに違いない。
聞けば、
●坑内員の勤務形態は一日3交代で各8時間
●一週間ごとのローテーションで、午前8時から午後4時、午後4時から午前零時、午前零時から8時の三交代
●常に危険と隣り合わせ。事故も多く、そこでは地上では想像もつかない過酷な労働を強いられた
ということだったらしい。
特に、ここ端島の炭坑は海面直下の1000mにあり、40度から60度を超す急傾斜炭層で機械化が妨げられ、多くの作業を人に頼っていたのでより過酷だったという。
しかしながら、そうしたキツイ労働を支えたのが家族であり、祭りや娯楽場。過酷な労働の対価として、昭和の最盛期には給与も高く、安い生活費とも相まって、テレビやステレオ、洗濯機をもっている家庭が多かったということだ。
ただ建物を見るだけではなく、ガイドから生活背景を聞けることは貴重な体験だ。今は廃墟となった高層建築群を見ながら、話を聞いていると、世界遺産登録時に、韓国側ともめにもめた「戦時中、軍艦島に海を越えた来た朝鮮人徴用工の労働条件が、『強制労働』か否かを盛り込むか」という視点を思い出した。
戦争というのは不条理の極みであり、ドイツのユダヤ人強制収容所、ソ連のシベリア抑留やポーランドで起こったカティンの森事件(ソ連の捕虜となったポーランド人将校、数千人がソ連内のカティンの森で密かに虐殺されたという事件)など、枚挙に暇がない。
日本も同じ、歴史は事実に基づいて、未来に受け継いでいかなければならないが、いつも「事実か」「事実でない」という大論争になる南京大虐殺に代表されるように、戦時中という狂気の世界では、どの国も同じような過ちを犯してきたことは推測される。
そのようなカタストロフ(大惨劇)は何故起こったのか?必然的にそうなったのか?さすれば、そういう人の奥底に潜む狂気をどのように押さえていくのかの掘り起こしが足らないような気がする。
人の暮らすところ、必ず権力構造が生まれ、経済格差や差別がある。しかも戦時中ではどうなる?・・・軍艦島にもそういう人間社会の縮図があったのに違いない。
産業遺跡というハード面の保存も大切だが、そうした誤った社会構造やヒエラルキーがあった事実は冷静に認め、未来に向けてどのように改善していくべきか。
そうした過程で、人間と社会のあるべ姿で考える機会を提供するという意味で、世界遺産登録をとらえると、非常に意義深い活動だと思う。
今回の軍艦島訪問は、2回目なので、「わぁ〜凄い」から「産業遺産のあるべき姿」などを考える機会となった。
★端島/はしま(通称:軍艦島)の概要
長崎県長崎市(旧高島町)にある島でかつては海底炭鉱の島として栄えた。面積は0.063 km²、南北に約480m、東西に約160mという狭い島に、最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達したという。
★軍艦島の歴史
●1810年(文化7年)ごろ
端島(軍艦島)で石炭を発見。
●1890年(明治23年)
三菱社が本格的に石炭の発掘を開始。
●昭和の最盛期
約41万トンもの石炭を摂り、病院(端島病院)や学校(町立端島小中学校)、寺院(泉福寺)、神社(端島神社)、派出所や映画館や理髪店などが建設されていて、島の施設だけで何不自由のない完全な都市を形成していた。但し、火葬場と墓地だけはなかった。
●1974年(昭和49年)1月15日
1960年代以降、エネルギー需要が石炭から石油へと移りゆく中、衰退。1974年(昭和49年)1月15日に閉山。数百万トンの石炭を残したまま閉めたというから、石炭を産出・供給し続けても、負債が増えるだけと判断されたのだろう。
●2009年(平成21年)1月
九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として認定される。
●2015年7月
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして登録される。
★当日、撮影した映像
★次号では、西日本新聞社の軍艦島公式サイトを紹介します。
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