先日は、大阪市内のゆかりの地をめぐりましたが、回っている内に「?」の連発。自分が何も知らないことに気づき、仕事とは全く関係ないのですが、ムキになってネットで調べていると、時々ロードバイクで走っているサイクルライン付近に、合戦の跡地があることを知り、愕然!

「何年、大阪に住んでまんねん!」とばかりに、自転車でザクッとめぐってきました。そして、Googleマップを使って、実際に地図を自分で作成!・・・仕事もしないで、もう何をしているのだ!・・・と思いつつ、自分の記憶に残すべく、作ってみました。地図を作ると「ためになった」という感じになるのであります!

さて、合戦の概要です。道明寺合戦は、大阪の藤井寺市と柏原市の両市をまたがって行われた戦い。兵の数はチェックしたサイトによって人数が異なり困惑したが、そのサイトが参考にしている史実書などによって、表記している数が多少違うのでしょう。そのあたりは差し引いてご覧ください。とにかく、豊臣側は勝つわけがないはというほど、多勢に無勢。実に哀れを誘いますね。

■合戦概要

1.名称:大坂夏の陣 道明寺合戦(道明寺の戦い)
2.時:慶長20年(1615年)5月6日
3.兵
●徳川軍:水野 勝成・伊達 政宗・松平 忠明の隊など、約34,300
●豊臣軍:真田 信繁(幸村)・後藤 基次(又兵衛)・薄田 兼相の隊など、約18,700人

4.戦前の経緯
■豊臣軍

  • 4月30日:大阪城の軍議で、大坂冬の陣で大阪城の堀を埋められたため、夏の陣は城を出ての総力戦と決定。
  • 戦の場は、真田 幸村が四天王寺(現在の大阪市天王寺区)、後藤 又兵衛が国分村(現在の大阪府柏原市)の戦いを主張。
  • 国分村は山に囲まれ、道が狭いので、徳川の大軍が戦いにくいという理由から、国分村での戦いに決定。
  • 5月1日:第1陣の後藤 又兵衛などの隊・約6,400が平野へ向けて出発。
  • 続いて、真田 幸村・毛利 勝永などの隊・約12,000が、天王寺へ向けて出発。
  • 5月5日:真田 幸村と毛利 勝永が、後藤 又兵衛の隊を訪れ、「国分村で徳川軍を迎え撃ち、徳川軍の隊長たちの首を取るまで、戦おう」と盃を酌み交わす。

■徳川軍

  • 5月5日夕方:水野 勝成を総大将とする徳川軍の先発隊、約3,800が国分村に到着。
  • 5月5日夜:伊達 政宗の隊・約10,000、本多 忠政などの隊・約5,000、松平 忠明の隊3,800が到着。
  • 松平 忠輝の隊・約12,000などは、まだ奈良にいた。

5.道明寺合戦その1:午前

国分村の小松山(現在の大阪府柏原市玉手町25-73)での戦い
小松山

  • 5月6日午前0時:“又兵衛”指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着。

  • そこで、幸村隊らの到着を待ったが、待てど暮らせどやって来ない。そうした状況の中、幕府軍が小松山付近の国分村に布陣していることを知り、単独行動を決断。石川を渡り小松山に登り陣を構えた。

  • 午前4時:後藤 又兵衛の隊は小松山にて、徳川軍の松倉 重政、奥田 忠次の隊に対しゲリラ戦を挑み、奥田 忠次を討ち取る。(小松山に奥田 忠次の墓がある)

  • 徳川の松倉隊も力尽き総崩れ直前になったが、水野 勝成、堀 直寄が到着し参戦、かろうじて助かる。

  • その後、後藤隊が銃撃を開始、徳川・伊達の片倉隊との銃撃戦となる。

  • 午前9時頃:伊達の本隊も小松山に攻撃開始。松平隊も東から小松山に攻撃し始めた。

  • 後藤隊は、決死の覚悟で応戦したが、多勢に無勢。遂に死を決意したのか、西から平地に下り、隊を二手に分かち、徳川軍に突撃を開始。

  • しかし、それも虚しく、伊達の数千もの鉄砲隊の一斉射撃により、ほぼ壊滅。

  • 後藤 又兵衛が被弾、胸を打ち抜かれて瀕死の状態に。部下に「首をはねろ!」と命令し、最期を遂げる。

  • 正午頃、約8時間もの激闘の末、大和川と石川に挟まれたエリアにある「小松山」での戦いは終わった。先兵隊の「後藤又兵衛の隊/2,800人」VS「徳川連合の隊/数万人」では、勝負にはならないのは明らか。
  • 後藤隊は壊滅。残党は石川を越え、道明寺へ退却。徳川隊は、それらを追い追撃。

6.道明寺合戦その2:午後

誉田(こんだ)の戦い:藤井寺村&道明寺村の「誉田八幡宮」(現在の大阪府羽曳野市誉田3丁目)あたり
誉田の戦い

  • 午後:豊臣軍の後隊(第二軍)である薄田 兼相(すすきだ かねすけ)、明石 全登(あかし たけのり)、山川 賢信らが道明寺に到着し、小松山の死闘で生き残った前隊(第一軍)と道明寺村で合流。幕府軍を迎え撃った。

  • 薄田は自ら太刀を振るい奮戦したが戦死、生き残った兵は誉田村方面に後退。*薄田の墓と供養塔が「大阪府羽曳野市誉田7丁目679」にある。

  • その時、後隊の毛利 勝永の隊がようやく藤井寺村(道明寺村の北西あたり)に到着。なおも遅れていた真田隊の到着を待つ。

  • その後、真田 幸村の隊が、道明寺から後退してきた兵を収容し誉田村(こんだむら)付近に着陣。毛利 勝永の隊は藤井寺にとどまった。

  • 徳川軍・伊達の隊長である片倉 重長は、誉田村の真田勢を発見。部隊を前後2隊に分け、左右に騎馬鉄砲隊を展開させて総攻撃。

  • 激戦が展開されたが、真田隊強く、伊達の隊を道明寺辺りまで押し込む。

  • その後、真田隊はいったん藤井寺に戦略的に後退し、毛利隊と合流し、徳川勢の攻撃に備える。

  • 伊達の片倉隊は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いのとなる。

  • 午後2時半頃:大坂城から八尾・若江の敗報したので、退去するように豊臣軍に伝えられ、午後4時過ぎから順次、天王寺方面へ撤退。
  • 徳川軍は、追撃を主張する者もいたが、兵が疲弊していたので、追撃を行わなかった。

しかし、翌5月7日 真田 幸村は後一歩で家康の首を討ち取る寸前まで行きながら、四天王寺・茶臼山の戦いで討ち死に。5月7日深夜に大坂城も陥落。豊臣家は滅亡した。

幸村らの到着が遅れた理由

  • 濃霧で出立時刻を誤った。
  • 寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった。
  • ・・・などの諸説あるそうですが、善戦をして豊臣家の滅亡を2,3日遅らせることができたでしょうが、敗戦は免れなかったでしょうね。

    私感

    観光という視点では、騒ぎ立てるほど感動するものではないが、歴史ファンにはたまらなく楽しい空間だろう。

    私自身は、石川から古の戦場を眺めていると、まさに芭蕉の

    「夏草や兵どもが夢の跡」

    を思わせるような風景でした。

    今回、軽く概略を学んでから自転車で回ったわけだが、見た記憶 + 調べた情報を加えて、書くということを繰り返していくうちに、好奇心が俄然わいてきました。真田に関する書物を読んで、もう少し深く知っていきたいと思う次第です。

    また、観光の視点で言えば、「誉田八幡宮」「道明寺」と「道明寺天満宮」は、別に真田とは関係なしに、物見遊山で非常に楽しめるスポットなので、おすすめしたい。なかでも「道明寺天満宮」の梅園は一見の価値あり!梅に詳しくなくとも、80種800本は、見応え十分。私が行ったのは2月3日ーそれでも暖冬なのか、もう半分くらいの梅は咲いており、風情がありましたね。それが咲き誇れば、どれくらい素晴らしいのでしょうか!

    ただ、古墳は???でした。

    応神天皇陵古墳(誉田陵)。古墳というのは上空から見ないと、何のこっちゃ分からぬ。ただの森。

    応神天皇陵古墳(誉田陵)。古墳というのは上空から見ないと、何のこっちゃ分からぬ。ただの森。


    ★道明寺天満宮の梅まつりは、おすすめですよ!
     2016年は、2月10日(水)~3月13日(日) まで。詳細は → http://www.domyojitenmangu.com/ume.shtml

    テレビやネット、文献で興味を持ったら、とにかく出掛けてみる。リアルで見る最大の収穫は、“距離感”。地図ではわからない時間軸、空気感を肌で感じることができます。

    また、“予期せぬ、うれしい出会い”があること。まさに、「道明寺天満宮」などは、全く予備知識なしに行ってみて、梅園と出会った・・・天からの贈り物をいただいたような、気になりましたのです。ホンマ!

    真田丸関係につきましては、長野県や和歌山県の九度山などへも出掛けたくなりましたね。もし行ったら、このブログで紹介させていただきます!

    ■参考したサイト
    ●藤井寺市観光ボランティアの会・・・こちら
    ●ブログ・道明寺の戦い(このサイトは詳しいです!)・・・こちら

    オマケ・・・そして、Googleマップで、道明寺の戦いの経路図を作成。周遊される場合の参考になさってください。

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