上の写真左は「金沢・ひがし茶屋街」、右は「大阪・飛田新地」
連休中真っ只中、行楽地に遊びに行こうと思ったが、ニュースの渋滞風景を見てゲッソリ(^_^)

そこで、近場の通天閣の新世界から飛田新地をブラブラ歩き。

小さい頃は、学校が近くだったので、親父や同級生と一緒に遊びに行ったものだが、案外近所の名所には行かないもので、すっかりご無沙汰だった。

そういえば、金閣寺の近所に住む大学の同級生は「金閣寺に3回しか行っていない」。生まれも育ちも江戸っ子の友人は「六本木、渋谷、ありゃ田舎者が行くもんだよ!ワチキは行かねえよ〜」とか言うのを思いだした次第。

でも、今日はどう思ったのか、新世界から飛田新地を2時間くらいかけて、じっくり、ゆったり、まったりと散策。

そこで驚いたのは、あまりの混雑ぶり!家族連れに、元気な若者たちにアツアツのカップル、アジアの観光客に、往年の新世界のお馴染みさん風のおっちゃんたちが入り交じって、大盛況。

10数年前には閑古鳥が鳴いていた新世界。串カツ屋に長蛇の列が出来ているのを見て、「良かったな!新世界くん!」と思わず心で叫んでしまった。

そこから南へ向かうと、明治・大正時代の遊郭・でも風景は茶屋街風の飛田新地へまったりと向かった。

だんだんと人が少なくなっていくのだが、商店街を外れて、ある一角に入ると、色香ただよう空間に迷い込む。

そこは明治・大正のカオスの風景〜茶屋遊び、痴話、情事、熱愛、悲哀、店の金に手を付けて入れ込む男と一緒の駆け落ち、吉行淳之介の驟雨、近松門左衛門の曽根崎心中や心中天網島などの世界が紡がれてきたのに違いない。

飛田新地の表向きは料理組合、今では夜通し三味線やお囃子で粋に遊ぶ空間ではなく、短時間でビジネスライクに男女の愛を確かめ合う場所。

昼なのに、多くの若者グループに、ひとりでターゲットをきっちりと定めて狙い撃ちの方も多く、練り歩いていた。

Wikipediaを見ると、次のように書かれていた。
難波新地乙部遊廓が全焼した後、1916年(大正5年)に築かれた。規模は、22,600坪。1918年(大正7年)には既に100軒あまりの妓楼 (ぎろう)が並んでいた。妓楼の数は昭和初期には200軒を超える。花街も戦災を免れた唯一の廓である。戦後にいわゆる赤線となった。*妓楼 (ぎろう)とは、遊女を置いて、客を遊ばせるお店。

小学生の頃は、どのような空間なのかもわからずに歩いていたし、中学生の頃はうすうす何をするところかを芽生えながら、自転車で横切っていたな〜と、懐かしく思い出された(^_^)
もちろん、夜ではなく、昼間の話です。

新世界とその南にある動物園前一番街/飛田本通商店街にほど近い、大阪市西成区山王三丁目のほぼ全域にある遊郭(私はあえて茶屋街と言います)。

散策するだけでも結構楽しめるので、おすすめです。ただし、南のエリアの散策は昼にしてください。飛田新地については、このサイトを参照してください。詳しいです。

結構、楽しんだ道を逆戻りしていたら、新世界の歴史を紹介する写真が商店街の壁にコラージュされていたので、iPhoneでパチリ!

明治・大正・昭和の通天閣と新世界の歩みが写真で物語られていて、結構楽しめます・・・じゃんじゃん横町の中の壁にあります。

写真を見ていると、今の新世界より大正時代の新世界へと、タイムスリップしたくなりました。
創業時の新世界は、ホントの「新しい世界」〜1912年(明治45年・大正元年)には、ルナパークと命名された一大エンターテインメント空間が築かれ、何と通天閣から、もう一つあったタワーへはロープウェイで行き来するという小粋さ!

往時には、劇場に、映画館、デパート、遊技場、飲食街が立ち並び、大道芸人から闇市風の露天商が遊びに来た人たちをたいそう楽しませたという。


次回へ続く〜金沢の茶屋街について書きます!こうご期待を!・・・期待していないか?!
金沢・茶屋街の記事はご覧ください

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